曳地奈穂子さんからのメッセージ

 私は、北海道の旭川市で生まれ育ちました。
大学で福島県出身の夫と出会い、結婚して福島県郡山市に住むことになりました。
生活は快適でした。
福島県はお米も果物も野菜もおいしいし、自然もたくさんあり、郡山は特に都市の規模も旭川と同じくらいです。
気の置けない友人もでき、なかなか恵まれなかった子供にも結婚7年目にして授かり、10年目には二人目も授かりました。
つつましくも幸せな毎日を過ごしていました。
 しかし、その生活をあの震災が変えました。
郡山は震度6。家族が怪我なく無事に避難所で会えたのは本当に幸いでしたが、住んでいたマンションの水が出ないこと、ガソリンがなくなり移動がままならないこと。
余震が絶えず来ること。最初はそれらから逃げるつもりの避難でした。
 しかし、北海道の私の親はそれだけでなく、被ばくを避けるために避難しろと勧めました。
周りの人は「ただちに影響はない」という言葉を信じてとどまる人がほとんどでした。
 当時、福島の人は震災の片づけに追われ、ガソリンがないことからスーパーから物もなくなり、水も出ない場所は多く、原発の情報など気にする暇もなかったのです。
おそらくそれはほかの地域のひとから見れば信じられないでしょうが、本当にそうだったのです。「政府は嘘をつくこともある」と、夫もとりあえずは逃げろと言い、辛い判断だったとは思いますが、私と子供たちを送り出してくれました。
しかしそんな夫も、まさかその離れ離れが3年にも及ぶとはその時思いもよらなかったでしょう。
 北海道でライフラインに支障のない状態になり初めて情報を冷静に判断できるようになり、原発事故の影響の大きさが恐ろしくなりました。
こんなことになっていると思わず、子供と公園に水を汲みに行ってしまった。
外で遊ばせた時間は爆発の何時間後だったのだろう。ミルクを作った水は大丈夫だったのだろうか。
3月11日から数日しか福島県にいなかったけれど、そんな後悔に苦しめられることになりました。
その当時まだ上の子は4歳になったばかり、下の子は1歳の誕生日直前でした。
小さな子供にこそ被ばくの影響は大きい、とチェルノブイリの事故の教訓でよく知っていたのに・・・。
 その後は、福島に戻ってもう大丈夫、といつまでも判断ができず、離れ離れの生活が続きました。
夫も、夫の両親もどれだけ辛い日々だったでしょう。
特に夫は、何事もなかったのように過ごす福島県民の中で一人の生活をすることは、本当に辛かったと思います。
私の母も、避難が長引くにつれ、自分が避難を勧めたことに負い目を持つようになってきていると感じました。
だから私はあまり自分の辛そうな姿を見せたくなく、気丈にふるまっていました。
 辛い時は私は自分の苦しみを、文章にすることにしました。新聞の投書欄にもその時々の考えや思いのたけを綴りましたが、「詩」という形でも書きました。
書くことで自分の迷いや苦しみを昇華させたいという気持ちもありましたが、いつか私のこの時の気持ちを夫や子供たちに理解してほしい。
そんな気持ちもありました。
 いつしか詩も数が増えていきました。
段々と、多くの人に詩を読んでもらい、原発の功罪について是非を問いたいと思うようになり、北海道新聞の文学賞にも応募したりました。
最終選考には残りましたが残念ながら落選でした。
 そんな時に北海道の震災避難者の会「みちのく会」でつくる震災の手記に詩を掲載しませんかとオファーをいただきました。
より多くに人に読んでもらえればと快諾し、いくつか選んでいただいてVol.2と3に掲載していただきました。
 そんな詩がこうして、これからの時代を担う世代の高校生に曲を付けていただき、歌い演奏していただくことになったとは驚きですが、本当に光栄に思います。
より多くの人がこの楽曲を聞き、震災によって苦しんだ、また、苦しめられ続けている人がまだいるということをわかってもらえたらと思います。
そして、原発の是非を考えるきっかけになれば幸いと思います。
 我が家は3年の別居を経て、夫の離職、転職、移住という決断により、北海道で、家族そろっての再スタートを切りました。紆余曲折の中で、夫にとっては苦渋の決断だったと思います 。
 しかし家族そろったからといってめでたしめでたしではないのです。
福島に残っている夫の両親はどんなにか辛いことでしょう。
そしてその間に立つ夫はどれだけ辛いことか。夫の気持ちは、子供たちの笑顔をそばで見られるからといって全て晴れるわけではないと思います。
そんな苦しみが続くとわかっていながら、私の気持ちが変わらないことに最終的には折れてくれ、私の気持ちに寄り添ってくれ、夫には感謝してもしきれません。
 長くなりましたが最後に一言。自称クリーンなエネルギーは全然クリーンじゃないのです。
生命の根幹であるDNAを破壊する威力を持っています。
悲しい桜を見る人をこれ以上増やしてはならない。
こんな理由でふるさとを離れる人を増やしてはならない。
私は強くそう思います。
ふるさとを離れずいる人たちにも、避難先から戻った人にも、一抹の不安を抱えたまま過ごしている人がいるでしょう。
ただちに影響がでなくとも、いずれ出るかもしれない、という不安をなぜ罪なき人が背負わねばならないのでしょう。
 夫は移住への決意を、こう言っていました。
「子供はあっという間に大きくなる。その成長過程を一緒に過ごしたい。」と。
もう先に延ばせない。
今決断しないとダメだと。私が福島に戻るという決断をできないのであれば自分が北海道へ行くしかないだろう、と思ったと。
 大事な人と手をとりあって、安らかな気持ちで生きる。
それが人にとって一番大切なことなのではないでしょうか。
 そして未来ある次世代へ、負の遺産をこれ以上作らない努力をする。
それがまっとうな大人の、常識的な考えだと私は思います。
重たいメッセージかもしれませんが、どうか皆さんに届きますように。